こんにちは。総務課の佐藤です。
学校は夏休みに入りましたね。これから海水浴やキャンプ・お祭など楽しい思い出をいっぱい作って下さいね。今回は、当社のある涌谷町に江戸後期から明治にかけて「命の尊さを唱え続けた僧侶」のご紹介を致します。
慶念坊(キョウネンボウ)とはどんな人
文政3年岩手県和賀郡山口村(現北上市)に生まれる。二十代半ばに、郷里を出て仙台市北山の称念寺で得度。その後四国巡拝の旅に出た。4・5年後南部出の鎌田権右衛門を箟岳に訪ね、その信を得て、涌谷を中心に近隣8郡を巡り歩き「他力信心」を説いた人です。
当時東北地方は、洪水や冷害による作物の被害が大きく、人々の暮らしは困窮し、口減らしの為に赤児を間引くという忌まわしい幣習が行われました。その幣習を深く憂い、死の運命にある赤児を53人も貰い受け、自らの手で養育しました。その他、説得をして赤児の命を救ったことは数知れぬ程でした。小太りのがっちりした体格で贅沢を嫌い、貧しい身なりをしていたので「ほいと(こじき)坊主」と呼ばれていたそうです。
寺でお経を唱える僧侶ではなく、自ら野を巡り、赤児を育てながら風の日も雨の日も説法を続ける姿はやがて多くの人々に「生きる」希望を与えるようになりました。
明治4年7月5日 52歳で生涯を閉じました。
お墓について
大正9年に五重年忌の際に涌谷町小塚に自然石風で建立されました。地域の方々にどれだけの聖人として崇められていたかがわかるように今でも綺麗に整備されています。
顕彰碑
平成2年 百二十年大遠忌に営み顕彰碑が涌谷町天平の湯の敷地内に建立されています。この世に生きるすべての命の尊さを身を持って示し続けた慶念坊を語り継がれていくように顕彰碑に刻みこまれていました。
<まとめ>
いつの時代も「子供は宝物」です。未来を背負っていく一人です。近年は子供の虐待やいじめ問題を良く耳にしますが、この世に生まれた尊い命を大切にし「子どもの幸せを願って」みんなで見守っていきたいですね。
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